石動山の自然と歴史・文化

石動山より富山湾と立山連峰を望む

自然

西に遠く日本海、眼下に邑知の里、北に広がる能登島と七尾湾、その彼方に能登半島の山並みが連なる。振り返ると、白雪を頂く霊峰立山連峰、日本百名山の内、12名山の雄姿が、風光明媚な屏風として迫りくる真下に、能登・氷見の長い海岸沿いに白波が、静かに引いては寄せつつ、ゆるやかな丸い弧を拡げ、虻が島初め島々が浮かぶ、壮大なパノラマに、人々は魅せられる。
この辺りの山頂部は、冷温帯性の能登半島のブナの自然林が残る唯一の地であり、氷河期に南下した冷温帯植物が、温暖な気候にもどってからも山頂に残された貴重な生きる化石とも言える。今では石動山々の500m∼頂565mの狭い範囲にしか生えず、能登半島国定公園特別区域に指定されている。
当地に国司大伴家持は、生涯、最も多くの詠歌を楽しみ、万葉集編纂に魂を篭める貴重なよすがを得た。
追手回避の東北行き途上の義経は、思わず、岩に腰掛け、この大自然の絶景に見惚れ、しばし疲れを癒された。
明治初期、米国随一の名家のローエルは、人に知られざるこの景観に憧れ敢て能登を訪問、大満足し名著を出版。

歴史(概要)

当開山は、古く、日本国内の境界がない頃の紀元前91年の方道仙人説、717年の泰澄説等々がある。古代には、山岳信仰に仏教が習合し、山頂の大御前に在る御神体虚空蔵菩薩は、本地と崇められ、寺域9里四方は勅願の聖地であった。
中世には、修験道と真言系密教が融合した五社権現が生れ坊院約360、衆徒3000となり、平和で豊穣な勧進と勅願の霊場であった。だが、南北朝の頃、山内が、南北両派で激戦し、一山灰燼。

1341年足利尊氏が、光明天皇の勅令で再建。
戦国時代、石動山の頂に祀られた伊須流岐比古神社を中心とした五社の別当寺として天平寺が発展した。
だが、織田側の能登領主前田利家と、越後上杉勢と当山衆徒とが、荒山峠で激突、再び一山灰燼。
1583年正親町天皇が秀吉、前田利家に再興の勅令を出した。
1772年後桃園天皇が、高志7ヶ国勧進を再確認。
当山は、加賀藩前田家と御室御所仁和寺に庇護され、再度、朝廷の信頼篤い勅願所となり、知識米4万3千石を誇る天下無双の霊場聖地となった。

歴史(概要)

先史時代からの森林と巨木への信仰。絶えることのない生命力旺盛さえを讃えた縄文文化。日本の三大霊峰の二つ(花の名山白山、峻厳な立山)への山岳信仰を深めた修験道達の活躍。限りなく豊富で綺麗なお水(能登出身の無数の酒作り名人(杜氏)が、全国で大活躍)、日本一の収穫を誇る広大な水耕田(奈良平安時代には、朝廷・東大寺の荘園の約半分がこの地に集中)、季節を問わず多種多様で新鮮美味な魚達を無限に恵む母なる海。長らく日本の海運業の30%強を占め、高志の加賀米、海産物、芸術民芸品、その他多数の名産品、そして神と仏のみ教えを、日本列島に幅広く流通させ、巨額な富を創った北前船運輸の本拠地。

加えて、古代ペルシャ・インド等中央西アジアからの多様な文化・人物・宝物等の豊かな国際交流の窓口であり、若い紫式部が感動し、後源氏物語を著わすに至った地。この高志(加越能、北國七州)では、神と仏と人々が習合し相い、一般の人々は、この伊須流岐比古山に祈り、大自然、山川草木、動物、更には、多様な宗派主義主張の相異のみならず、多くの地域と人々の間の壁をも越えるために、何よりも神と仏の御前にて、和を以て尊しとし、平和で豊穣な薫り高い伝統文化の精華の開花実現を、心から悲願する土徳の念を、超長期間に亘り、唱和し、紡ぎ、継ぎ、続け、世代を越え永久に、昇華せんとした。

天平寺の歴史文化の粋を継ぐ長楽寺・山門

伊須流岐比古山(石動山)は、古くから皇室や朝廷の信仰を集めた北陸有数の霊場です。757年には藤原家道の参拝が伝えられ、1224年には皇室の祈願所として記録されています。また、中世には天平寺が勅願所として朝廷との深い関わりを持ち、多くの人々の信仰を集めました。

1335年の南北朝の戦乱や1582年の兵火によって山内は幾度も焼失しましたが、そのたびに朝廷や武家の支援を受けて復興しました。最盛期には天平寺を中心に360余の坊院、3,000人を超える衆徒を擁し、北陸を代表する神仏習合の霊場として栄えました。

江戸時代には加賀藩前田家や仁和寺の庇護のもと繁栄を取り戻しましたが、1868年の神仏分離令によって寺院や坊院の多くが失われ、一山は大きな転換期を迎えました。

それでも石動山の信仰と文化は受け継がれ、現在も伊須流岐比古神社や天平寺ゆかりの史跡が往時の歴史を伝えています。幾度もの困難を乗り越えてきたこの霊場は、今なお復興と継承への歩みを続けています。