伊須流岐比古神社・
天平寺(長楽寺)

平和と豊潤、薫り高い悠久文化の精華の実現開花。

元号も境界もなく、能登の名もない先史から、大自然と巨木生命と命の永劫蘇生を信んじた縄文文化に加え、二大霊峰白山・立山からの聖水が新鮮清冽に流れる山里に、降水積雪稲妻は類なく多く、山岳信仰の修験が盛んとなった。

後、稲作達人の高志の人々が入植、日本一の肥沃な稲作田園を耕し創り、瑞穂のゆかりの真源地となった。天平・奈良以降、朝廷・東大寺系荘園の 50%強が北陸道に集中し、 歌聖人大伴家持が国司赴任。
神道や仏教等の一特定の派を主とする高野や比叡の霊場とは趣が異り、当地は、遙かに見晴るかす雄大な絶景を眺望する石動山の頂、大御前にて神体の伊須流岐比古神社を祀り、神仏本持の虚空蔵菩薩、後には、修験道と真言系密教の影響を受けて五社権現が、夫々に成立。

大自然の恵、生命の相互尊厳、寛容共感を大切にし、神と仏の習合を初め、諸動物と諸山川草木とも融和し、和を以て尊しとする土徳が溢れる真源地。
人々は優しく、平和で豊穣な薫り高い伝統文化が、鄙の衆生凡夫の御百姓・母子様達の暮らしの隅々に浸透、深化、拡大する、天下無双な神仏習合の霊場聖地として津々浦々に衆知。歴代最も多くの天皇勅願を連綿と継続励行、比叡、高野にもまさる天下の大道場として知られた。

中世、 豊穣で広大な広域での勧進を許され、 伊須流岐比神社の傘下に 135 社 (実際は千社超) 、社地 50 町四方、 総名天平寺の坊院 360 余、 知行地高志 7 ヶ国 43000 石余、 衆徒 3000 人余を擁する天下屈指の神仏習合の勅願聖地霊場であった。
だが、明治の薩長藩閥政府は、天下に聴こえた加賀藩の伝統的文化の歴史的象徴の当聖地霊場を、一夜で徹底的に壊滅し、遺棄忘却せさせ、往時住民の子々孫々さえ皆、涙が枯れ果てた。

だが、荒城の深夜、草木のみ、人知れず悲嘆し、落涙し続けて尚、最難関課題が果てぬ今の世故にこそ、往時の天下一と言われた当霊場聖地の本源的復興を悲願して止まぬ人々少なからず。

伊須流岐比古神社

遙かに見晴るかす雄大な絶景を眺望する石動山の頂、大御前、御神体に伊須流岐比古神社を祀り、神仏本持の虚空蔵菩薩、修験道と真言系密教の影響下の五社権現が、夫々に浸透、生きとし生ける悉が、和を以て尊くも即身成仏となり、命を紡ぎ継ぎ抜く天下一の聖地の寺院総名天平寺、同伝統を今に引き継ぐ、天平寺と長楽寺並びに山門の歴史的意義。

石動山は、757年勅使左大臣藤原家道が、参拝時、虚空蔵菩薩像が示現、と。1224年宣揚門院(後白河法皇の皇女)の所領目録に「石動山、皇室の祈願所」と在り。1484年石動山天平寺、勅願所の由緒で、歳末の数巻を朝廷に進上。1486年石動山天平寺、歳末の巻数一合を朝廷に進上。京都冷泉為広、石動山に参拝「これや此、神の力の、ゆするぎや、四方に名高き、山風の聲」と。
石動山との関係で、諸灰燼を乗り越えんとする強い悲願と、復興実現の有難い歴史は、次の通り。

太古、古代、奈良平安期:天下の一大勅願霊場

嵩神 6 年(紀元前 92 年)
古縁起によれば、第十代嵩神天皇の御代に、石動山頂に、勅を奉じて宝剱を納め、 「宝満宮」 、すなわち、伊須流岐比古神社が創建される。
養老元年(717 年)
僧泰澄大師、石動山を登り、法道の位鉢を受け壇を広める。
天平 8 年(756 年)
泰澄、講堂を建立、石動寺を改めて天平勝宝寺となす。
天平宝字
朝廷より、四至九里の地を賜い、加賀・能登・越中・越後・佐渡・信濃・飛騨が勧進地となる。
当該広域の北陸街道沿いに、朝廷の総荘園の約 53%もが、集中するに至る。
延長 5 年(927 年)
延喜式神名帳に伊須流岐比古神社の名前が見える。
寛元 4 年(1246 年)
伊須流岐比古神社は北越の霊社として、その盛威は越州を圧倒すると言われる。

鎌倉末、南北朝、室町、戦国期:尊氏、南朝宗良親王、謙信、信玄、信長、秀吉、利家が、競い合った豊穣な舞台

建武 2 年(1335 年)
南朝系天皇親政からわずか 1 年余、北朝系足利尊氏が謀反。尊氏側の越中守護・普門蔵人利清と、石動山衆徒側の越中国司・中院定清が戦い、皇統が分立、一山灰燼、南北朝動乱の端緒となる。
石余、衆徒 3000 人余を擁する天下の一大勅願霊場の神仏習合の聖地として、全国に衆知となる。
天文 13 年(1543 年)
後奈良天皇、大御前社頭再興を論旨
興国 2 年(1341 年)
光明天皇が尊氏に、一山再建を命じる。結果、総名天平寺の坊院 360 余、知行地高志 7ヶ国 430石余、衆徒 3000 人余を擁する天下の一大勅願霊場の神仏習合の聖地として、全国に衆知となる。
天平 4 年(1575 年)
謙信・信長勢が、陸路で石動山を攻めんとしたが、途中、越中の一向一揆勢に、完敗し、敗走。
天正5~6 年(1576~77 年)
謙信、新に、陸路でなく、海路で石動山に至り、石動山を本陣とし、七尾城を攻略。

江戸期:歴史的に傑出した加賀藩の歴代藩主公達の優れた統治( 「政治、加賀一、佐賀二」 (荻生徂徠) )
絶対的な平和、不介入、中立の下、文化最優先策の絢爛とした開花が続いた( 「加賀は、天下の書庫」 (新井白石) )

天正 9 年(1581 年)
長連竜、前田利家の援を得て、七尾城を奪回。信長、長連龍に石動山新神領を知行させ、また、前田利家に、能登一国を与える。
天正 10 年(1582 年)
利家、将士を石動山におき、警備にあたらせる。
天正 11 年(1583 年)
正親町天皇、石動山天平寺の再興を豊臣秀吉に命じ、前田利家、石動山天平寺の再興に最善する
天平 13 年(1585 年)
豊臣秀吉、薬勝寺火乃宮の境内高台で 16 戦国大名を前に、前田利家に越中を与えると宣言し、利家は、全国一の大大名となる基盤を揺るぎなくし、石動山は、加越能発展のシンボルとなる。
天正 15 年(1587 年)
利家、大窪村大工に屋敷地を与え、石動山天平寺の再興を促す。
天正 19 年(1591 年)
利家、100 俵を石動山天平寺へ寄進。
慶長 2 年 (1597 年)
利家、天平寺の僧に、石動山への還住を許す。利家の三男知好、石動山にて出家す。
慶長 15 年(1610 年)
利家の母芳春院、天平寺へ打敷を寄進。
寛永 2 年(1625 年)
利常、石動山へ、朝廷への巻数を毎年怠慢なくつとめよ、と定める。
慶安 5 年(1652 年)
綱紀、利家の 50 石に 100 石を加え、石動山へ寄進。
承応 2 年(1653 年)
利常、虚空蔵菩薩白山権現堂(現本殿)を石動山へ寄進。
承応 3 年(1654 年)
利常、林羅山に命じ、石動山天平寺縁起(新縁起)を著わす。
利常寄進の虚空蔵菩薩白山権現堂(現本殿)完成のため、天平寺が祈祷巻数等を贈る。
利常綱紀の礼状来る。
寛文12年~宝永4年(1672年~1707年)
五社権現の内、火乃宮、梅宮、剣宮等再建する。
享保 18 年(1733 年)
仁和寺より北陸七ヶ国勧進往古の通りとの書状来る。
宝暦4年 (1754 年)
仁和寺の執奏を乞い、御撫物拝戴・御巻数献上は古法通りとなる。
宝暦 7 年(1757 年)
仁和寺より、天平寺は鬼門の鎮守・北陸魔障鎮圧の勅願所との教示状を拝戴する。
明和 9 年(1772 年)
後桃園院により、七ヶ国人民を産子とし、御穀神納の論旨を拝戴する。
天明 6 年(1768 年)
石動山に五社権現・講堂・神輿堂・経蔵・開山寺等二一の論旨宇ある。
文化 13 年(1816 年)
泰澄大師、1500 年法事を講堂にて行う。
天保 9 年(1838 年)
加賀藩、気候不順につき、石動山、白山等に祈祷をさせる。
嘉永 6 年(1853 年)
海岸防備視察のため能登巡視中の前田斉泰、石動山へ登り、加越能の安泰安全を祈願する。

加賀藩寺社奉行宛に出された、伊須流岐比古神社の本社復旧に関する願書の代表的実例の一部:本社復旧の当神社から、加賀藩寺社奉行宛に提示された、次の神社復旧願いは、概ね速やか円滑に受入れられ、実行された。

1712~13 年
2 年連続で、伊須流岐比古神社、大風での本社破損状況書上や、藩寺社奉行に諸願書を提出。
1722、32、34、35、37、38、39、40、41、51、59、61、85 各年に本社修覆等願書を継続的に出した。
1754 年
大宮坊、寺社奉行へ、検校職再興に付、取り計らい願い出る。
1828 年
石動山、寺社奉行へ越中街道口下馬札破損に付、建替え願を提出。
1845 年
6,10 月の 2 回伊須流岐比古神社、本社建替え用材木の運搬につき、二宮村、加賀藩へ人足賃銭願を提出。

明治期:石動山、伊須流岐比古神社の優れた伝統文化の精華を、徹底的に壊滅した明治初期の筆舌に尽きぬ人災悲劇

明治 1 年(1868 年)
神仏習合は禁じられ、全山衆議し還俗を申し合わす。かっては 3000 人近くいた住民は、無償での強制下山を命じられ、坊院の縁起書や各家の過去帳等は破棄され、急激に人口が減る。
明治 2 年(1869 年)
北陸七ヶ国勧進を禁じる通達があり、一同伊須流岐比古神社の社家となり、勧進は神社として行いたいと神祇官へ嘆願書を出すも、明治政府から却下される。平和で豊潤な薫り高い芸術、学問、工芸等幅広い文化の精華が絢爛と花咲いた加越能に、裏日本と呼称が全国的に浸透し始める。
明治 3 年(1870 年)
加越能のシンボル石動山、祈祷祈願を差し止められる。
明治 4 年(1871 年)
能登国全域と越中西部(射水郡)を統合管轄するために七尾県が発足。
明治 5 年(1872 年) 2 月
金沢県が石川県に改められる。 9 月 七尾県が石川県に編入。
伊須流岐比古神社の本殿・拝殿と天平寺(延命院)は残し、他は売却して収入をはかる。
明治 7 年(1874 年)
大御前の各社を廃し五社を大宮へ合祀し、神輿堂を拝殿として今の地に移し正遷宮慶賀祭を行う。

年中行事

  • 4月 春季例祭
  • 7月7日 開山祭
  • 9月 春季例祭

概要

御祭神:伊須流岐比古神 伊弉諾尊
鎮座地:鹿島郡中能登町石動山子乙1
氏子区域:中能登町・石動山
TEL:090-4322-2146 (能登部神社) ※電話連絡は能登部神社にて承ります。

天平寺(長楽寺)山門

遙かに見晴るかす雄大な絶景を眺望する伊須流岐比古山の頂、大御前、御神体に伊須流岐比古神社を祀り、神仏本持の虚空蔵菩薩、修験道と真言系密教の影響下の五社権現が、夫々に浸透、生きとし生ける悉が、和を以て尊くも即身成仏となり、命を紡ぎ継ぎ抜く天下一の聖地の寺院総名天平寺、同伝統を今に引き継ぐ、天平寺と長楽寺並びに山門の歴史的意義、次の通り。
1484 年石動山天平寺、 勅願所の由緒で、 歳末の数巻を朝廷に進上。 1486 年石動山天平寺、 歳末の巻数一合を朝廷に進上。伊須流岐比古山との関係で、諸灰燼を乗り越えんとする強い悲願と、復興実現の有難い歴史は、次の通り。

灰燼:建武 2(1335)年
建武の戦乱。南北朝戦争時、後醍醐帝の宗良皇太子、3年滞在、南朝の経済的拠点の地。
石動山での建武の戦いにて、南朝系宗良親王側の越中国司中院定清と北朝系尊氏側の越中守護中院利清が争い、一山灰燼( 「遂に定清戦場において命を堕とされ、寺院悉く兵火のために回禄せしめおわんぬ」 (太平記、巻十四、諸国朝敵蜂起事の段) 。
1343 年
光明天皇が、尊氏に命じ、山の再興を命ず。豊穣な広域での勧進米を許され、総名天平寺の坊院 360 余、 知行地高志 7 ヶ国 4300 石余、 衆徒 3000 人余を擁する天下屈指の神仏習合であり、一大勅願霊場聖地として津々浦々に衆知の地となった。
◎安楽寺(長楽寺の前身寺院名)は、能州勅願所五社権現本山太平寺の別院であり、七尾城主畠山氏の祈願所として栄えた。
1518 年
後柏原天皇から諸堂再建の論旨を得て、勧進米促進が活動始まる。
1543 年
後奈良天皇、大御前社頭再興を論旨。
灰燼:1575 年
石動山合戦が始まる。
天正 3(1575)年
上杉謙信、能登経略のために、海路、軍を進める。
天正 5(1577)年
上杉謙信、石動山に依り、七尾城を攻略する。
天正 9(1581)年
信長、利家から能登一国を与えられ大名の仲間入り。
天正 10(1582)年
利家、鹿島半郡を長連龍に与えた。
天正 10(1582)年
越後上杉と石動衆徒が結び、前田利家と交戦。荒山城陥落時、上杉の兵火で焼失。
天正 11(1583)年
正親町天皇、秀吉に石動山再興を論旨、利家が再興に最善す。
◎天平寺管長玄秀が三社権現(観音・不動・金毘羅)に祈祷し、長家から寺領を寄進された安楽寺は、号に、長氏の号を入れ、長楽寺に改称し、再興。
天正 13(1585)年
越中東部富山に居た信長の第一武将佐々成政を討つため、秀吉、名だたる 16 戦国大名、軍勢10 万人を率いて、成政を降伏を謀や、成政、厳冬の立山を越え、駿河の家康に、打倒秀吉での団結を誘うも失敗。僧侶姿で成政が降伏した直後、越中射水野の薬勝寺火乃宮の境内高台にて、利家に、越中を与えると宣言。
ここに、利家は、能登一国の大名から、今や、能越をも得て、全国一の大大名へと飛躍する基盤を盤石にした。
1609 年
前田利家公・同夫人、石動山へ木造十一観音像を寄進。翌年利家夫人、当山大宮坊に打敷を寄進。
1630~33 年
藩主利常公、幾度も、石動勧進に付、河北郡十村宛、協力周旋せよと命ず。
1753 年
石動山、寺社奉行宛、勧進知識米徴収に付、往古の格式に復し、協力するよう徹底願いでる。
1772 年
後桃園天皇、石動山へ北國七ヶ国御穀神納の論旨を下す。
1757 年
御室御所仁和寺、石動山へ鬼門鎮守の教示状を下す。
歴代加賀藩主の加護で、寺坊 58 となり、総称天平寺の繁栄が回復。
灰燼:明治元(1868)年
薩長藩閥明治政府が、無補償の下山命令、勧進禁止令、寺院壊滅令、僧侶還俗令で一山壊滅。
灰燼:
今や、その繁栄を誇った伊須流岐比古山は、栄華を偲ばせるも、訪ねる人少なく、一人、伊須流岐比古神社が、唯々静寂なしじまに、悲哀に満ち、たたずむ。迅速円滑な歴史邸な復興が、必須である。

交通案内

石川県鹿島郡中能登町能登部下106甲2
TEL:0767-72-2112